自分用の備忘録(ロジオン)

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【本・漫画の感想-17】ローマ人の物語Ⅳ・Ⅴ ユリウス・カエサル(塩野七生)

ロジオンです。

 

 今回は塩野七生さんの「ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル ルビコン以前」(文庫 だと8・9・10巻)、「ローマ人の物語Ⅴ ユリウス・カエサル ルビコン以後」(文庫 だと11・12・13巻)の感想を整理してみました。

 

 【感想】

 西洋史の中でも屈指の存在であるカエサルについて、「カエサル大好き」が滲み出ている塩野さんの文章によって存分に味わうことが出来る本です。文庫本6冊なのでそこそこ長いですが、カエサルの幼少期からカエサル死後のオクタヴィヌアスとアントニウスの権力争いまで非常にドラマチックなので、一気に読むことが出来ます。個人的にはハンニバル戦記と並んで「ローマ人の物語」のハイライトに相当する巻と思っています。

 以下に気になった場面や言葉を整理していきます。

 

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」

 カエサルの言葉だそうです。自分を顧みて「確かに・・」と自戒することもありますし、管理者の立場だと部下はみんなそういうものだ・・、という前提で物事を考える必要があることも分かります。 最初はそうでも無かったのですが、社会人として過ごすうちに重みを感じてくる言葉です。

 

 - 多額の借金を持つことはもはや『保証』を獲得したことと同じになる。多額の借金は、債務者にとっての悩みの種であるよりも、債権者にとっての悩みの種になるからである。不良債権として忘れ去るには、あまりに多額すぎるからだ - 

 なぜカエサルが莫大な借金が出来たのか、という問いに対する塩野さんの分析です。何となく納得できるような気もしますし面白い視点と思いますが、しみったれた経済感覚の中にいると実感は出来ないです。。いずれにせよ、使途も公共事業が多かったようですし、カエサルには「お金を貸しても良い」と思わせるだけの魅力があったのでしょうね。

 

ガリアの指導者:ヴェルチンジェトリックス

 カエサルを一度は撤退させ、絶体絶命の窮地に追い詰めたヴェルチンジェトリックスは、欠点も多いのですが、魅力的な人物に描かれています。印象的なのは失敗・敗北の後にも関わらず、ガリア人の信頼を勝ち得たところです。失敗した後の指導者が「姑息な言い逃れをしないこと」「希望を与えること」「現実を説くこと」の重要性は、現代でも通じるものがあるように思います。

 ガリア戦役の終盤のアレシア攻防はカエサルとヴェルチンジェトリックスのどちらを応援したら良いのかわからないくらいでした。

 

ルビコン越え

 ガリア戦役後、元老院派との内戦に向かうカエサルの有名な言葉は必要最小限かつインパクト十分です。

「ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ我が破滅。」

「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」

 同じローマ市民と闘うよう求める兵士への演説の仕方も興味深いです。

  - ガリア戦役の最初の年から数えれば九年間、数多の勝戦を闘い、ガリアを制覇し、ゲルマン民族の押しこめにも成功することで国家に多大な貢献を成したお前たちの最高司令官の、名誉と尊厳を守ってくれるよう訴えたのである。- 

 本当に信頼し合う間柄であれば、道理に訴えるより「俺のために戦ってくれ」とストレートに言う方が効果的なのかも。

 

ポンペイウスとの内戦

 各地域にまたがる内戦は一進一退で、ドゥラキウム攻防戦での直接対決でカエサルが一度敗北を喫します。その後の兵士たちへの演説と塩野さんの解説も印象的です。

 「勝利を逃した要因は、諸君の混乱、誤認、偶発時への対処の誤りにある。」

  - 人間は気落ちしているときにお前の責任ではないと言われると、ついほっとして、そうなんだ、おれの責任ではなかったのだ、と思ってしまうものである。こう思ってしまうと、再起に必要なエネルギーを自己生産することが困難になる。ついつい指導者の判断待ちという、消極性に溺れこんでしまうものだ。

 責任はお前たちにある、と明言することで、兵士たちが自分自身で再起するよう誘導したのだと思う。-

 

 ポンペイウスとの最終決戦となるファルサルスの戦い はこれまで何度も出てきている「敵主戦力の非戦力化」に成功した事例の一つになりますが、戦史上は微妙な扱いになっていることに対して、塩野さんの解説が面白いと思いました。

 言ってみれば「間に合わせ」で勝ったからである。

 彼にとっての軍事は「政事」をやるための手段にすぎなかった

 

・寛容(クレメンティア)

 カエサルの、対抗した勢力を許し次々と吸収・同化していく方法は、カエサル直前のマリウスvsスッラ時代、直後のオクタヴィヌアスvsアントニウスにおける処罰者名簿や粛清の嵐を見ると、特別なものに感じられますし、事実としてカエサルは許した相手から暗殺されてしまいます。

 ただし、敗者を同化していく精神は、それまでのローマの方法論そのままだったりします。共和政から帝政へと大きく政体を変えたのがカエサルだったことは、ローマの健全な成長を意味しているような気もしています。

 

・「帝政へ」

 「歴史はときに、突如一人の人物の中に自らを凝縮し、世界はその後、この人の指し示した方向に向かうといったことを好むものである」

 -ユリウス・カエサルは、強大化した肉体に適応した内臓を、ローマに与えようとしたのである。言い換えれば、国家ローマを、高度成長期から安定成長期に導こうとしていたのであった。

 2年足らずの間に暦・政治・通貨・金融・司法・社会・・様々な分野で改革を進めていきます。政治の素人なのでよくわからない部分もありますが、塩野さんの解説を読むと全体構想がしっかりしている印象はあります。多岐に渡る改革は必ず表と裏(トレードオフ)があるので、一人が決めていったほうが良いのかもしれません。ただ「カエサルの構想が見えなかった人」達が置いてけぼりにされた感覚を持ったのも分かる気がします。 

 

・暗殺

 暗殺者たちが、カエサル暗殺後に何を出来ずに破滅していく姿が印象に残りました。「共和制に戻す」という大きな目標はあったのでしょうが、それに向けた構想が無かったということかと思います。現代でも、主流派に反対していた人が、いざ自分が担当になったり権力を握るとまともに動けない、というのはよく見る光景でもあります。「反対するときは具体的な代案を添えて」と昔の上司から仕事の基本を教わったときのことを少し思い出しました。

 

  なんとなくですが、最高権力者の暗殺~後継者による統一 という流れを見ると、信長・光秀・秀吉の関係が頭に浮かんできます。もちろん個々の人間性やスケールの大きさは全然違うのですが・・。時代に合った大きな流れを誰かが作ると、たとえ致命的な中断があったとしても、その勢いで進んでしまうものなのかもしれません。

  

今回は以上です。